(2)ビアホール前史
この頃大阪では、「ビール会」というものが東京のビアホールの機能を果たしていた。ビール会は、1895(明治28)年夏、大阪麦酒によって大阪の中之島に開かれた臨時営業の一杯売りである。ビール会は大変好評を博したため、大阪麦酒は同じ中之島で1897(明治30)年7月に冷たいビールと洋食を提供する「アサヒ軒」という常設店を開いた。それ以後ビール会と称してビールを提供する食堂が大阪のあちこちに開かれた。
「ビール会」は常設店とはいえ冬季は閉鎖されていたが、東京にビアホールが登場した1899(明治32)年の冬には、アサヒ軒が暖炉を設置して通年営業を始めた。当時はまだストーブが家庭に普及していなかったため、暖かい室内でビールという組み合わせが人気を呼んだ。ここでは温かい「燗ビール」も出していた。
東京ではビアホールが登場する前からビールのコップ売りが行われていた。明治の初め、西洋料理店や牛鍋屋では普通、びんビールを提供していたが、樽から注いでコップ売りをする店もあり、高価なびんビールより比較的気軽に飲めるコップ売りのビールを楽しむ人々もいた。また、山本笑月著『明治世相百話』で「バーの元祖函館屋」として紹介されている銀座尾張町の函館屋は、明治初年の開業と伝えられる。ここは「三間間口の店に細長いスタンド、左右の棚には奥までいっぱいの洋酒の瓶、それも舶来の上等ばかり」という、まさにショットバーの元祖のような店だった。ここでもビールのコップ売りが行われていた。
明治20年代に入ると、東京の日本橋や京橋では、夏の夜は遅くまでコップ売りの店が繁盛したという。酒販店の店頭でコップ売りをする店も現れ、その盛況ぶりは「暖和の季節に向へば焼芋屋もかまどを移して(略)一杯売の洋酒屋に転業の準備」(『時事新報』1889年4月)と新聞に書かれるほどであった。
大阪でビール会が人気を博し、東京でビールのコップ売りに固定ファンがついている状況下に登場したビアホールは、「ビアホール」の名称の斬新さもあって、華々しい成功をおさめたのだった。