1871(明治4)年、明治政府は肉食を事実上許可し、肉食を奨励した。また、翌年には、明治天皇が肉食奨励のため、牛肉を試食したことが新聞で報じられたことも、肉食の広まりに拍車をかけた。そして、日本独自の料理である「牛鍋」がまたたく間に流行し、文明開化を代表する料理となったのである。
「牛鍋」の発祥については諸説あるが、一般に1862(文久2)年頃、横浜で居酒屋を営んでいた
伊勢熊という人物が牛鍋を出したのが最初と言われている。また同じ頃、横浜で牛肉の串焼きを屋台で売り始めた高橋音吉が、1868(明治元)年に牛肉を鉄製の鍋で出す方法を考案した。
牛鍋屋を舞台に文明開化の世相を描いた作品『牛店雑談安愚楽(あぐら)鍋』(1871年刊)によると、牛鍋屋の品書きに「ビイル十八匁、サンパン二十匁、上酒二百三十文」と書かれている。新しい幣制に換算すれば、ビールは約30銭、シャンパン約33銭、上酒約6銭となる。
『安愚楽鍋』では「牛鍋食はねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」と書かれ、1874(明治7)年刊の『東京新繁盛記』では、「肉の流行は汽車に乗って命を伝ふるより遥かなり」とあるほど、牛鍋に代表される肉食は新しい食べ物として流行した。1875(明治8)年の東京の牛肉屋は70軒であったが、1877(明治10)年頃までには東京市内で588軒にまで急増した。やがて、牛鍋とビールの組み合わせは横浜や東京の人々に浸透した。
明治後半には家庭でも肉をおかずにするようになる。
夏目漱石『吾輩は猫である』では、近所の黒猫、「車屋の黒」の飼い主が、肉屋の注文取りに牛肉一斤(きん)を注文している様子が描かれている。しかし、一般家庭では値段の高い牛肉は特別なごちそうで、車屋のおかみさんは正月のごちそうとして奮発したのだった。「車屋の黒」は飼い主の力の入りようを、「年に一ぺん牛肉をあつらへると思つて、いやに大きな声を出しやあがらあ」と批評している。