幕末期の日本人が口にしたビールはほぼすべてが輸入ビールであった。
1861(文久元)年11月23日付の週刊英語新聞『ザ・ジャパン・ヘラルド』に掲載された
O・H・ベーカー・カンパニーの広告にはワイン、ブランデーなどとともにエールタイプのビールを輸入したことを記している。この例のように、幕末に輸入されたビールの多くはイギリスのエールだった。
多くの輸入ビールの広告はブランド名を明記しなかったが、人気ブランドだったバス社、オールソップ社の製品は別だった。特にバス社の「ペールエール」の人気は高く、チャールズ・ワーグマンの『ジャパン・パンチ』にも頻繁にバス社の商標「△」マークが登場する。『日本の居留地物語』や『ミカドの国の外国人』の著者、H・S・ウィリアムズは、論文『日本のビール由来記』において、開港場の近郊では随所にバス社の「△」印が見られたと述べ、神戸の麻耶(まや)山の茶屋で「ペールエール」を飲んだ外国人の旅行記を紹介している。
明治に入ってもバス社の「ペールエール」の人気は続いた。そのため偽造品も出回るようになり、1871(明治4)年には東京府が府令によってバス社のラベルを偽造することを禁止したほどであった。
このように「ペールエール」は人気を博したが、しだいにイギリス以外からのビールの輸入量も増えていく。また、日本国内でドイツ風のビールがつくられるようにもなった。
1870(明治3)年、横浜山手に
スプリングバレー・ブルワリーを開設した
コープランドはドイツ人のもとでビール醸造を学んだ人物で、横浜ではイギリス風のエール、ドイツ風のビールなどを醸造した。その数種類のうちで、東京で
日本人向けに販売されたのはドイツ風のビールであった。コープランドは、日本人にはイギリス風のエールよりドイツ風のビールのほうが好まれると考えたのであろう。
寒冷な気候の北海道の開拓使麦酒醸造所では、ドイツ風のラガービールを中心に研究を進めていた。1878(明治11)年10月6日付の『読売新聞』は「ラアゲルビール(冷製麦酒)」の東京での販売開始を報じている。すると開拓使麦酒醸造所から読売新聞社にビールが寄贈され、20日後の26日付同紙で、「風味は至ってよく又苦味は並の麦酒より薄く飲んだところでは麦酒中の上等品と思はれます」とその感想が報告された。
しかし、明治10年代は国産ビールもイギリス風ビールの勢力が強かった。なかでもスプリングバレー・ブルワリーのビールを東京で扱っていた
金沢三右衛門が会社を設立し、コープランドの助手であった久保初太郎が醸造を担当した
「桜田ビール」は、明治10年代後半において国産のイギリス風ビールの代表的ブランドだった。