現在、「ビアガーデン」を名乗る店舗は、商業施設の屋上やバルコニー、公園の中、都会につくられた庭園の中などさまざまな場所につくられている。一部には通年営業のビアガーデンもあるが、多くは夏季のみの営業であり、高層ビルの屋上ビアガーデンは都市の夏の風物詩となっている。近年は夏の季語としても認められ、俳句に「ビアガーデン」の文字を見るのも珍しくなくなった。
日本のビアガーデンの歴史は日本ビール産業の歴史と同様、横浜で始まった。1875(明治8)年には横浜・山手のスプリングバレー・ブルワリーの隣で
「スプリングバレー・ビアガーデン」が開かれていた。醸造所を経営していた、
ウィリアム・コープランドは1884(明治17)年に醸造所を手放した後もビアガーデンの経営は続けた。主な客は居留地の外国人で、ガラス製のジョッキやトタンのような素材でつくったポットと呼ばれる容器でビールを提供していた。
明治30年代はビアホールが流行し、主に都市部の人々にビールが飲まれるようになり、園遊会でビールを飲むことも流行した。もともと園遊会は、西洋のガーデン・パーティーを見習い、飲食を楽しむものであった。1906(明治39)年に刊行された『日本家庭百科事彙』には、園遊会は明治18、9年頃に行われ始めたとある。
明治30年代の園遊会は、会場にすし、茶菓子、ビール、そば、餅などの店をしつらえるようになった。1901(明治34)年11月、財界人の渋沢栄一が開催した還暦園遊会は、渋沢邸の庭にビール店、茶菓子店、茶室などがしつらえられた。明治30年代も後半になると日露戦争から帰還した兵士たちを招いた大規模な園遊会が行われるようになる。1906(明治39)年2月発行の『風俗画報』第335号に掲載された日比谷公園で開かれた東京市主催の陸軍凱旋歓迎会の様子を描いた絵には、軍服を着た多数の人々が立ったままジョッキのビールを飲む姿が描かれている。人々がビールを飲む姿は、同誌1907(明治40)年7月刊の第367号に掲載された東京勧業博覧会褒章授与式後の園遊会の図の中心を占めており、当時の人々にとってビール店が園遊会のシンボルだったことをうかがわせる。
また、園遊会以外でも明治末期には花見の季節になると上野公園では臨時のビール店が設営された。その定番メニューは日本酒、ビール、サイダー、桜餅、ゆで卵だったとされる。
明治時代、園遊会や臨時のビール店は、野外でビールを飲ませる店であっても、「ビアガーデン」ではなく、「ビアホール」を名のることが多かった。「ビアガーデン」の語が一般的になるのは第二次世界大戦後である。
1934(昭和9)年、寺田寅彦はエッセイ、『映画雑感』において「吼えろヴォルガ」の回で、ドイツ映画『ハイデルベルヒの学生歌』で見た「露台のビア・ガルテン」で学生が合唱するシーンを回想している。彼のようにドイツ留学を経験した人やドイツ語を学ぶ人には野外のビール店は「ビア・ガルテン」であった。