1868(明治元)年、元号が明治に変わると、「文明開化」の時代が到来した。
明治新政府は日本を近代国家へと成長させるべく、制度・産業・文化の洋風化を積極的に推進した。そのこともあって西洋文物の流入と生活様式の洋風化が進み、西洋の食文化が広く導入されるようになっていった。
ビールの需要も着実に増えていくが、輸入ビールは値段も高く、船で長い時間をかけて輸送されるため品質にも問題があった。そこで何人かの横浜の居留外国人が、自らビール醸造所を開設した。これが日本ビール産業の嚆矢となる。そのうち初めて商業的に成功したのが「スプリングバレー・ブルワリー」であり、開設者で自らもビール醸造技師であった
ウィリアム・コープランドは、日本のビール史に功績を残すことになる。
やがて、明治政府の殖産興業政策の流れの中で、行政機関である開拓使がビール事業に着手した。また、日本人の手による中小規模の醸造所も多く設立されていった。それでも明治初期から中期にかけては国産品より輸入品のビールの方が多かった。
庶民にとっては高価な飲み物であったビールだが、文明開化の風俗を活写した仮名垣魯文の『牛店雑談安愚楽鍋』には、牛鍋屋の品書きに「ビイル」が記されている。このように文明開化とそれに伴う食文化の西洋化の中で、人々がビールに触れる機会も増えていった。