大正から昭和初期にかけて、都市部で人気を集めた代表的な娯楽施設はカフェーであった。
1911(明治44)年3月、銀座に「カフェー」を名乗る最初の店、
「カフェー・プランタン」が登場した。ヨーロッパのカフェーのように人と話し込んだり待ち合わせができる店がほしいということで、洋画家の松山省三らが開店したものであった。本格的なコーヒーが飲めて、料理はビフテキやカツレツ、ライスカレーなどの洋食が中心で、当時はまだ珍しかったマカロニグラタンやトマト煮、サンドイッチなども好評だった。酒も品ぞろえが豊富で、ビールをはじめ各種の洋酒やカクテルも出していた。同じ年の8月には、同じく銀座に「カフェー・ライオン」もオープンした。
カフェーにはコーヒーのほか、酒を飲みに来る客も多かった。1923(大正12)年の関東大震災から復興した東京の街には、このカフェーがいたるところに建てられていった。震災の数か月後には銀座に「カフェー・キリン」がオープン、ビールの味と料理で評判となった。1924(大正13)年には「カフェー・タイガー」がオープンし、繁盛したという。
時代が昭和になると、東京は数千軒のカフェーであふれたという。その頃、銀座のカフェーのほとんどは「狭い店に、女給を沢山置いて、蓄音機をならしずめにして、洋酒やビールを思いっ切り高く売る」(古川緑波「銀座と浅草」、『婦人画報』1930年1月号所収)という場所になっていた。