明治30年代には、主に洋食を提供する
食堂車が登場し、列車の中でもビールが飲めるようになった。1901(明治34)年から走り始めた東海道線の食堂車では、西洋料理とともにビールが提供された。四国の讃岐鉄道の喫茶室や、関西鉄道の車内販売でもビールが売られた。関西鉄道の1900(明治33)年頃の「販売品目録」によると、弁当20銭、すし10銭、サンドイッチ25銭、正宗(日本酒)小びん10銭に対して、ビールは大びんが25銭、小びんが15銭であった。
また、中元にもビールが贈られるようになる。明治20年代中頃には東京で、それまで「盆の遣い物」の定番だった素麺よりもビールに人気が集まった。当時の新聞記事には次のように記されている。
毎年盆の遣ひ物と云へば過半索(そう)麺(めん)の相場は定り居たしが、近年は進物にも自ら新風向を現はし洋酒就中(なかんずく)ビールは非常に持囃(もてはや)され、(『時事新報』1891年7月23日より)
値段は、大びん1ダースが2円40〜50銭ほどであった(『日出新聞』1905年7月30日付)。1ダースのビールの中元を贈るのはよほどの収入がない限り難しく、2〜3本で贈ることも珍しくなかった。