ビール会社直営のビアホールは、毎週産業戦士のために値下げをして営業する「産業戦士の日」を設けたり、軍需産業の工場への出張販売を行ったりした。一方、一般向けには販売量に「1人ジョッキ2杯まで」などの制限がついた。ビアホールには開店前から行列ができたが、そのビアホールも徐々に閉店し、1943(昭和18)年には全国で50軒ほどとなった。
1944(昭和19)年には、東京の高級料亭・カフェーなどが休業を命じられ、営業を続けられたのは大衆酒場や純喫茶など、限られた業態だけであった。また、1回の飲食の金額も2円以下と制限された。中には終戦まで開かれていたところもあったが、そういった店でも配給切符がないと飲めなかった。
これらに代わって東京では、
「国民酒場」が酒を飲める場所となった。大阪、横浜、名古屋ほかの各地でも、「勤労酒場」、「市民酒場」、「日の丸酒場」などの名称で同じような酒場が作られた。しかし1944(昭和19)年6月の東京の国民酒場の数は126軒しかなく、閉店された飲食店の数には到底至らなかった。