ビールが日本に浸透するにつれて国内生産が増え、1886(明治19)年には国産ビールの生産量が輸入量を上回った。この頃にジャパン・ブルワリー・カンパニー、札幌麦酒会社、日本麦酒醸造会社、大阪麦酒会社と、現在の大手ビール会社につながる会社が相次いで設立している。
これらの大規模ビール会社は、
ドイツ風のビールを採用した。当時の日本人にとっては、濃く苦いイギリス風ビールに比べて、淡白なドイツ風ビールのほうが飲みやすかったようだ。
ドイツ風のビールを醸造するには、冷凍機を導入する必要があり、当時冷凍機は大型で高価だったため、豊富な資金力を持つ大規模な会社が有利となった。さらに1901(明治34)年の
麦酒税の導入によって、中小ビール醸造業者の大半が姿を消していった。
また、日本全国に鉄道網が敷かれていくにつれて、ビールは地方にも少しずつ浸透していった。鉄道はビールを運ぶのに役立つのはもちろんのこと、駅に宣伝ポスターが貼り出され、売店でビールが売られることにより、ビールが人々の目に触れる機会が増えた。また、都会でビールの味を知った人々が地方に行ったときに注文したため、各地の料理店にも広まっていった。明治30年代には鉄道に食堂車が登場し、西洋料理とビールが提供されるようになった。
都会ではビアホールが登場した。1899(明治32)年に東京・新橋にオープンした
「恵比寿ビヤホール」はたちまち多くの人でにぎわうようになった。その後、東京の各所にビアホールが開店した。
さらに園遊会や花見の会場などにもビールが出されるようになり、駅の開業式では引出物としてびんビールが配られるなど、ビールはしだいに「ハレ」の場の飲み物として定着していくのである。