明治末期から大正の初めになると、地方の駅でビール箱を積む荷馬車が見られるようになる。「キリンビール、ボックエール、ピルスナビールの類は、山辺海到る処に商ふて居るから随所に之を求むるに事欠かない」(明治屋『嗜好』4巻7号、1911年7月1日刊)ほどに広がっていったようである。
ビールが地方に広がると、明治後期に大都市で誕生したビアホールが国内各地で開店するようになった。1914(大正3)年には三重県桑名、静岡県伊豆修善寺温泉、福岡の中原公園の花見などで「キリンビアホール」が開設された記録が残っている。
ビールの普及を語る上でもう一つ見逃せないのが、軍隊の存在である。
明治の早い時期から軍隊では、ビールを「酒保」と呼ばれた兵士のための売店などで販売していた。1885(明治18)年にできた
大阪鎮台の酒保には日本酒のほかビール、葡萄酒、カステイラ、牛肉佃煮などがあった。泥酔しないよう日本酒や葡萄酒には販売量の制限があったが、アルコール度数の低いビールは制限がなかった。
1904(明治37)年に始まった日露戦争では、宿舎でも戦場の酒保でもビールがよく飲まれたという。『風俗画報』第284号(1904年2月刊)に掲載された「宿舎に於て饗応するの図」でも、膳の前には徳利とビールびんが並んでいる。
地方の家から徴兵され、軍隊で初めてビールを飲んだという兵士も少なくなかった。彼らは除隊後もビールの味を覚えていたことであろう。