明治へと時代が変わった1868(明治元)年、当時、日本最大の貿易港であった横浜は西洋の文明や文化の窓口となり、文明開化の最先端を行く街の一つであった。
居留する外国人が増えるにつれ、横浜でのビールの需要は高まる一方だった。輸入ビールで最も人気があったのは、ラベルの赤い三角印で知られたイギリス・バス社の「ペールエール」だったようだ。1871(明治4)年には、偽造品が出まわり、東京府が府令を出して警告をしたことからも、その人気ぶりがうかがえる。だが、輸入ビールは赤道を通る航路で運ぶために品質が落ち、輸送料金などが上乗せされる分値段も高くなる。そこで横浜に居留する外国人によって、醸造所がいくつか開設された。1869(明治2)年の
「ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー」(横浜・山手46番地)、1870(明治3)年の
「スプリングバレー・ブルワリー」(横浜・山手123番地)、同年の「ヘフト・ブルワリー」(横浜・山手68番地)などである。
このうち最も長く続き、商業的に成功した醸造所は、アメリカ人の
ウィリアム・コープランドが開設したスプリングバレー・ブルワリーであった。コープランドは、イギリス風のペールエールやポーター、ドイツ風のラガービールやババリアンビール、ボックビールなど、さまざまなビールを販売していた。
1878(明治11)年の『朝野新聞』には、東京・新橋の「横浜ビール東京請売一手捌所 金沢正次」による広告文が掲載された。この店の経営者は金沢正次の兄である
金沢三右衛門で、現在の銀座8丁目にビール店を開き、国産のビールを広く日本人に売り込もうと考えていたようだ。電報でスプリングバレー・ブルワリーに注文を出すと、鉄道によって横浜から新橋に品物が運ばれてきたという。
ちなみに、スプリングバレー・ブルワリーのビールの値段は、1878(明治11)年当時、樽ビール5ガロン入り2円、大びん1本20銭(1ダース2円)、小びん1本15銭(1ダース1円)だった。コープランドは1881(明治14)年に、日本人の好みに合わせた特製のビールを醸造している。彼のつくるビールは居留外国人に好まれただけでなく、金沢三右衛門のビール店などを通して日本人にも飲まれていたのである。
また、コープランドはビールの原料や醸造機械の販売も行い、さらに日本人への技術指導も行っていた。このことが、日本人経営の醸造所設立に貢献することになる。