日本に入ってきたビールは、西洋人のみならず、日本人にも飲まれるようになっていく。
1861(文久元)年に来日したイギリス人画家チャールズ・ワーグマンは、幕末に起きた事件や当時の風俗などを横浜で発行されていた雑誌『ジャパン・パンチ』に描いているが、その中にビールを飲む日本人の姿が描かれている。武士と思われる人物が西洋人に向かって「拙者は文明だけが好きでござる(“I like only civilization!”)」と言いながら、片手でビールグラスを掲げている。この武士のように、横浜を訪問した日本人がビールを口にすることは珍しくなかったようだ。
また、横浜以外でも日本人がビールを飲んでいた記録も残っている。駐日イギリス公使ハリー・パークスの通訳だったアーネスト・サトーは、1867(慶応3)年に薩摩藩の
小松帯刀らと会食したことを『一外交官の見た明治維新』に記している。小松はビールをことのほか気に入ったらしく、「脂肪の多い肝のパテや薄い色のビールをうまそうに、ぱくつき、飲みほし」て「上きげん」になってしまったという。