1890(明治23)年に東京の上野公園で開かれた
第3回内国勧業博覧会では、「キリンビール」の販売元だった明治屋が宣伝効果をねらってビール貯蔵用の大樽を展示した。このときには80種類以上のビールが出展されたが、これは1895(明治28)年の第4回博覧会(京都)、最後の内国勧業博覧会となる1903(明治36)年の第5回博覧会(大阪)よりも多い数であった。
第5回博覧会ではどのビール会社も会場の中に特設ビアホールをつくるようになった。1907(明治40)年の
東京勧業博覧会でもビールの販売店が設営され、福引の景品にもビールの引換券が配られた。
またビール会社は桜の季節になると、東京では上野公園や隅田川沿いなど、花見の名所に特設の販売小屋を設けるようになった。明治の末頃には花見茶屋でも日本酒やサイダーとともにビールが出されていた。
屋外でビールを飲む機会として、ほかに園遊会があった。園遊会は明治中頃に欧米のガーデン・パーティーをまねて始まったようだが、明治後期になると「近来ますます流行の傾向」(『明治東京逸聞史』)となった。1905(明治38)年に三菱の岩崎家の別邸で開かれた園遊会では、ビールの露店が7店も出店された。また、この頃各地で開かれた日露戦争の凱旋を祝う園遊会には将校から下士官、兵卒まで集まり、5,000人を超える規模になることもあった。1906(明治39)年に東京市が開いた凱旋軍歓迎会ではビールの模擬店が満員盛況となった。
駅や橋の落成記念でもビールを配ることがあったという。1899(明治32)年5月、東海道の汐留川にできた新橋の開通式では、地元の酒店から3,000本のビールが通行人に配られた。現在の銀座7丁目から8丁目にかけての場所で、当時既に東京で一番のにぎわいを見せる繁華街だったため、人々がたちまち集まりわれ先にとビールを求めた。その4年後に神田の万世橋が開通したときには、記念式典での引出物の中にビール1本があった。
また、1906(明治39)年に群馬県館林で開かれた園遊会の様子を描いた『風俗画報』の絵にもビールが描かれている。地方都市でもビールを口にする機会が、少しずつではあるが増えていったことをうかがわせる。