幕末期には、西洋の政治制度や社会思想を学ぶため、幕府や一部の藩によって欧米へ使節団が派遣された。使節団員の中には、欧米の国々や船上で初めてビールを口にする者も少なくなかった。
1860(万延元)年、幕府はアメリカに初めての使節団を派遣する。この一員であった仙台藩士の
玉虫左太夫は、
軍艦ポーハタン号の船上パーティーの様子を書き残している。パーティーで出された「肉饅頭」、「焼鳥」、「蒸餅」などの食べ物は「臭気鼻ヲ衝キ予輩ノ口ニ合ズ」と気に入らなかったようだが、ビールは「苦味ナレドモ口ヲ湿スニ足ル」と記している。
ポーハタン号には、通訳見習いとして
立石斧次郎という17歳の若者も乗り込んでいた。幼名を「為八」といい、日本人から「ため」と呼ばれていたことから、アメリカ人たちの間ではそれがなまって「トミー」という愛称で親しまれていた。
この「トミー」が、兄・小花和重太郎とビールを酌み交わす貴重な写真が残っている。1867(慶応3)年に大坂で撮影されたものらしく、ちょんまげ姿でビールを飲む日本人の写真は、この1枚しか現存しない。おそらく彼もアメリカでビールの味を覚えたのではないだろうか。
またポーハタン号に随行した咸臨丸で渡米し、2年後の1862(文久2)年には欧州使節団の一員として渡欧した
福沢諭吉は、西洋の食事やアルコール類について、著書『西洋衣食住』の中に記している。ビールについても触れており、「其味至て苦けれど、胸膈を開く為に妙なり。亦人々の性分に由り、其苦き味を賞翫して飲む人も多し」と評している。